怒るという動作

見解は様々あると思いますが・・

前回記事、「豊かさと心の持ちよう」では、怒ることがなくなったと記しました。

怒る、ということについてちょっと辞書で確認すると、

 不満・不快なことがあって、がまんできない気持ちを表す。腹を立てる。いかる。「真っ赤になって—・る」

 よくない言動強くとがめる。しかる。「へまをして—・られた」

Webilio辞書

2は私の解釈ではどちらかといえば、叱るに近いかなと感じます。

相手のためを思って(これも押し付けや傲慢さや上から目線的な側面があるのかもしれませんが)諭す気持ちを込める部分でしょうか。ただ、「怒る」は強めな印象が拭いきれません。

となると、1について今回の記事で取り上げられると良さそうです。

不満・不快⇨がまんできない⇨

人間なので(と、前置きしまして)誰しもが不満や不快感を覚えて、フラストレーションを溜めたり、愚痴などで発散したり、がありますよね。

あのなんとも言えない胸の内のモヤモヤした感覚は、一刻も早く忘れ去るか、吐き出して自分の外に出してしまうか、あるいは、直接的に相手にダメージ的に伝えてしまうか、そんな行動に移してしまうのもヒト。

よくないなぁ、と思いつつも、衝動的に感情的になって抑えきれないとでもいうのでしょうか。

ただ、先ほどのようにふと、辞書を確認してみると、怒るの発信源は自分であって、他者との比較にあってはじめて発生しているようにも思います。

時には、自分自身との向き合い方の中で、自分を客観的にみることで、自分に怒りを覚えるという方もいらっしゃるとは思いますが・・。

話を戻すと、詰まるところ、決して意のままに変えられない相手が、自分の価値観に合わせてくれていないことに気づいて、そのギャップの大小を問わず、個々の耐えられる水準を超えてしまえば、それは我慢できずに怒る、なのでしょうか。

まとめ

自分と第三者を比べ続けるのは人間の性な気もしています。

なので、比べるな、とは言えないのですが、比べることから距離を取ると、心の平穏がある、ということに気づくことができればそれはまたハッピーかもしれません。

私は、競争の激しい、常に安心感のない企業組織の中で生活していたこともあって、自分を護るために、気づけば強く、他者と比べてしまっていることに気づきました。それに疲れたなぁと感じ始めたのは、30代後半の時。心理学者アルフレド・アドラーの著書をわかりやすく解説していただいている「嫌われる勇気」を読んだ頃です。

それぞれの豊かな人生を送る第一歩はそうした他人に対する期待との距離を置けるかどうか。当時の私には難しいことだなと感じた記憶が今もはっきりと覚えています。

Today is the first day of the rest of my life.

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