ヒトそれぞれの人生
先日、社会人になって出会った十数年来の友人(7歳年上)と食事をする機会がありました。
彼は一般家庭で育ち、努力の末、国立大学医学部へ進学。その後は医師としてキャリアを積み上げ、いまは大阪の繁華街で開業し、地域医療に貢献しています。
本人なりに苦労も重ねてこられたものの、側から見れば、順調に人生基盤を作り上げてこられたと見えるのではないでしょうか。
一方、私はというと、
同じく一般家庭に育ち、県内有数の進学校から私立大学に進学します。時代は就職氷河期後半、いわゆるロスジェネレーションといわれた世代です。就職先は意外とあっさり決まり、さまざまな社会人経験を積み上げながら、モーレツ社員のごとく、朝から晩遅くまで毎日馬車馬のように働き続けました。
これはこれで悩みながらも楽しく充実した日々を過ごすことができたわけですが、所属していた業界からは22年ほどで離脱します。この業界で働き続けることに自分自身の未来を投影できなかったためです。周囲からみれば、せっかく好条件で働くことができたレールを外れて、と見られていたのかもしれません。
数年、紆余曲折しながら、現在は自営業を生業としながら、週に数日働き、残りは勉強をする毎日です。
20-30代の頃のわたし
いまよりずっと若い頃、どうしても周りの目を気にしたり、どう思われているかばかりが気になっている部分がありました。つまり、どう評価されているのか、もっといえば、良く思われたい!という承認欲求の塊のようになっていたのです。
これはいい面もありました。例えば、高校生の時、バレー部だったのですが、周囲からすごいプレーヤーだと思ってもらいたいというのが強いモチベーションになり、練習にとことんまで打ち込んでいたわけです。おかげで素人からスタートしたバレーボールも、それなりに上達し、生涯をもって楽しめるスポーツにまでなりました。
しかし、この周囲の目を気にすることは副作用もあります。
どこか、意見やふるまいなど生き方において、どこか臆病だったり自信がもてなかったりすることにもつながります。
例えば、大きな講演会を任されたときなど、自分なりのベストパフォーマンスを追求すればよいにも関わらず、同僚や上司、関係者の胸の内を類推して勝手にどう思われているかばかりを恐れることで、どこか中途半端で満足度の高いイベントに仕上げることができなかった場面など。
こうした周囲に対する意識はゼロでは困りますが、過度に反応してしまうと、生きていても楽しさが減弱します。
人生の意味は自分で決める
どこか悩んでいた当時、ベストセラーとなっていた「嫌われる勇気」を手にしました。
いわゆる、アドラー心理学をわかりやすく紐解いてくださった良書です。
しかし、当時の私には、アドラーのような考えは遠い存在のようにしか感じられなかったのです。
それがいま、40代となって、仕事一辺倒の生活から離れ、自分と向き合う時間が増えたことのおかげもあってか、アドラーのいう言葉がとてもしっくりくるようになってきたのです。とても不思議ですが、数年間、自分なりにこれからの生き方を深掘りしたからに他なりません。
他人を気にしない。いつも気にすると不自由な生き方となる。どんなことをしても自分のことをよく思わない人はいます。仕事と交友を区別することは有用でしょう。(中略)
失敗を恐れない。(中略)私は他の人の期待を満たすために生きているのではない。他の人は私の期待を満たすために生きているのではない。
『嫌われる勇気』古賀史健・岸見一郎
まとめ
あるときには、理解が届かない言葉も、また時を経て、しっくりとくる瞬間がやってくるものです。周りの目を気にしてばかり、八方美人的な私は、どこか周りから期待されていると勝手に勘違いしてきた側面がありました。周囲はまったくそんなことを思っていないにも関わらずです。
これは決して自分ばかりを責めてしまってはよくありません。もちろん、親や親類、友人知人、上司などが「期待しているよ」と良かれと思って伝えてきてくれたことが、期待されていると思い込む一つのトリガーだったのは否定しません。
ですが、少しそういった経験から認識を離してみれば、社会通念上の道徳やマナーなどは別として、他人がどう思おうが気にしないことが、自分らしさを日常で発揮できるスパイスであるように思います。
あなたは周囲を気にすることなく自分らしくいることができていますか?
Today is the first day of the rest of my life.